理系院生がどうして研究も就活もそっちのけで人文学について考えているのか。

学問は写真さながら終わりの見えない登山の如し(筆者撮影)

どうもお久しぶりです、原田です。前回はキリマンジャロの頂上からお送りしました。

ブログ慣れした前回のガチャガチャお姉さん(以下ガチャ姉)とは違い、これが2回目なので手探りで書いている部分が多いですが、よしなにお願いします


自由に書いていいよとガチャ姉に言われたのですが、書くことないなぁ...と。
好きなものはたくさんあるけど、他のメンバーに比べると突き詰めてるとは言えないし、映画館の座席について書こうと思ったらすでに似たブログたくさんあるし(オススメは最前列中央)、モンストについて語っても誰得だし。


そんなこんな逡巡していた時に、「そういえば自己紹介で言ってなかったことあったわ
と思い出したので、そのことについて書こうと思います。以前の自己紹介のパートにて

「発起人」の一人、原田です。

と言ったこと覚えてますか...? 読んでないそこのあなた!ここからちょっとだけ読んでみて!

理系である僕がそもそもどうしてこの企画を立ち上げるに至ったのか。
まずはその動機についてゆったりざっくりお話しましょう。


プロローグ



事の始まりは今年本郷キャンパスにおいて開かれた第91回五月祭にまで遡ります。色んな企画を巡っていた時でした。工学部2号館や6号館では機械系や情報系など名だたる理系どストレートな学科の学生が、おもいおもいの企画を催していました五月祭に来たのに学科展示に足を運ばなかったら何しに来たの?と言われても文句言えませんよ!是非学科展示をみてね!ぼくが所属する社会基盤専攻も後輩が「ドボクぼくの街」と題して展示・演示を行なっていました(宣伝が遅い)


五月祭の有名企画「利き酒」。農学部の専修有志が企画している伝統ある企画です。

そんな中ふと思ったのです、

「あぁやっぱり知らないことを「知ること」は楽しいし、ワクワクする」

と。ここで止まっていれば良かったものの、

「これだけワクワクする企画を楽しそうに説明されたら、男女問わず入りたくなるよ...」

と悪魔は勝手にささやきます。彼は続けてこう言いました。

「なんで文系の展示は少ないの...?このままだと理系に人取られちゃうよ?」


「いやお前理系やん」という鋭いツッコミを甘んじて受けましょう。皆さんは日本の学知の長たる東京大学の学園祭において、実際に文系や人文系の展示を見たことはありますか?非常に少ないのではないかと思います。


人文系の展示が少ないのは...?



実は人文系の展示はないわけでは決してありません。その事実を理解している五月祭常任委員会としても公式の企画として、法文1号館でいわゆる「人文系」の論文紹介をしていました。ぼくももちろん見に行きましたが、タイミングや場所が悪かったのかほとんど人はいませんでした。おじさんが連れの方に内容の説明をしていて驚いたのをよく覚えています。


ただ直近の駒場祭や五月祭の「学術企画」として委員会から公式に認定される企画の中に「人文系」の企画はほとんどありません(リンクもつけておきます。興味ある人はみてください。駒場祭:65,66,67,68 五月祭:88,89,90,91(いずれも回数表記))。人文・社会系という枠組みで括られる中で、多くは社会系(社会科学)の企画です。
さらに本企画も第69回駒場祭において「学術企画」の選考から漏れ落ちるというギャグとしか言えないような出来事が起こりました。企画そのものが企画のコンセプトを示すというなんたる自虐か。


落選の通知を受け取った時のメンバー。


もちろん人文系の展示が少ない(=世間へのアピールが足りていない)ことが前回紹介したような人文学の危機に直接的に結びつくと考えるのはいささか早計ですし、物事を単純化して捉えすぎていると言われても仕方がないと思います。しかし文系学部において多くの学生が学部就職をする中で、学問を担おうとする次の世代のほんの一部の人たちと積極的にコミュニケーションを取ろうとする必要はあるでしょう。
(何より展示方法として理系に勝る見栄えがないというのは致命的かもしれません...我々の企画でも一番難しいところです。)


人文系学生の特徴



非常に私見的な文章の中でも特に私見に塗れているので、この後数段落に書いてあることに不快感を覚える方もいるかもしれませんがご了承ください。

さてそもそもの話になりますが企画名にも含まれる「ジンブン」学はその領域すら非常に曖昧です。一部自分の企画内容の紹介とかぶる部分がありますが、人文学の例に限らず「農学」「薬学」「理学」などの分野境界についても融合が進んでいるため、「じゃあ君は○○学ね」と簡単に定義することすら困難ですし、そもそも領域区分を行う意味すらあるのか疑問です。


また理系として本企画に携わるものとして

「言葉を正確に選び、定義にこだわり、結論に先走らない。そして「知ること」を渇望している。」

そんな人が人文系の学生には多いように感じます。そこに本企画の意図を紐解くヒントがあります。


つまり人文学の性質と人文学に携わる彼らの性質どちらもが「人文学」を公にアピールすることを阻んできたのではないかと思うのです。前述したようにそもそも曖昧な学問領域であるにも関わらず、言葉にして簡単に定義してしまうと何か漏れ出るものがあるかもしれない、誤解されるのは嫌だという気持ちが、「人文学」とは何かについて具体的に言及するのを避けてきた要因の一つだと考えることができるのではないでしょうか。


しかし現状としてコミュニケーションを取らなければ間違いなく人は減ってしまう。人が減れば声も小さくなり予算も減るだろう。そうした危機感が根本にある企画なのです。だからこそ是非意見を持っている方、それは違うんじゃないかと思う方は当日112号室にお越しください。我々が完璧な解を提示しているなんて微塵も思っていません、ある程度の割り切りの中で進めている部分もあることは認めます。ただ、少しでも理解してもらおう興味をもってもらおうと思い、嘘だけはつかないようにあるがままをお伝えできればと思っています。


企画が開かれる1号館112号室。当日どうなるか我々も楽しみです。(筆者撮影)


さて、一つ大学院生の不満を聞いてもらおう



そうして始めた企画ではありますが、もう一つ研究室・院生生活を続ける中で思うことがあったわけです。多くの大学院生が陥る罠であり、抜け出すには多大なる労力を払わざるを得ないのです。

「人間関係が非常に限定されてしまう」

多くの人がサークルを引退し、同期も就職していく中、大学に残り学問を修めようとする我々にとってはまさにこのことこそがフェイタルで本質的な問題を孕んでいるのです。


大学がどのような場であるべきかという議論については後述するとして、もちろん人間関係を広げるために行っているわけではないことだけは確かでしょう。しかしことの本質はより根深いところにあると考えます。つまり家と研究室を往復する生活を続け、かつ「ある程度真面目に」研究していると、ふと思うわけです。

「この分野こそが世界を支えているんじゃないか...?」
 「どうしてみんな分かってくれないんだ」
いやそんなことないでしょwって思いますか?...まぁ少し誇張して言っている部分があることは認めますが、少なくとも大事だとか面白いと感じなければ研究していないはずであることは皆納得するところだと思います。知らず知らずの間に価値観が○○ナイズされてしまう、こうした現象に名前をつけるのはガチャ姉にでも任せるとして、そのどこが問題なのでしょうか。


そんなわけないやん



答えは至極簡単です。

「そんなわけないやん、あほちゃうか。」

それだけです。ただこれに気がつかなくなる。人間関係が思った以上に自分の視野を規定していることすら、長く同じ環境に置かれると感じ取れなくなる。

例えば土木を専門とする学科にいると「みんな防災について考えているはずだ」と勘違いしてしまうわけです(先日当学科の同期と3人で飲んだ際も、そういう発言が連発していました、絶対人に聞かせられない。)。専門的な思考の枠組みや習慣が知らず知らずの間に染み付くこと、これを共通言語の内面化」と呼びましょう。「ディシプリンのことでしょ」とおっしゃる方、ご名答。そう読み替えていただいても構いません。


ある意味自分の所属する土木は分かりやすいのかもしれません。どのように社会に資しているのかが明瞭であるからこそ、共通言語の内面化にややもすると陥ってしまうのです。そこまで啓蒙的な視線とは言わずとも、こうしたことは研究していく上ではどの分野にいても避けられないことではないかと思いますし、必要な場面というのも必ずあると思います。


しかしそうした内面化を薄々感じ取っていたからこそ、この企画を通じて色んな人の研究を知りたいと思ったのです。共通言語の「外面化」とでも呼ぶべき行為は、自ら行動を起こすことによってでしかなし得ません。ぼくにとって研究の内容だけではなく、内容に繋がる興味関心の源泉の違いは非常に魅力的なのです。


知について



知は、そして社会は大きな構造体であり、到底把握しきれない無数の要素によって構成されていることはこのブログを読んでいるみなさんであれば百も承知のことでしょう。ですが近年もてはやされるような「言説」はあまりに一面的であるように思います。SNSに並ぶトレンドや記事にはそうしたコメントが並びうんざりとします。この繋がりは偶然ですが、ガチャ姉が前回の記事で次のように主張していました。


わたしは、人文学をないがしろにして、自分の目の届く範囲の時代や地域のことしか考えられない人間ばかりになると、人類全体としてダメになっていくと本気で思っている。いや、自分の目の届く範囲の時代や地域のことすら考えようとしない人間も増えているのかもしれない。SNSの時代になって、そんな狭隘な視野をもつ人間がますます増えている。自分が共感できる意見しかタイムラインに並ばないように設定して、自分の価値観をただただ強化するだけ。わたしもそうなってしまいそうだ。だけど、こんなはずじゃなかっただろ人間。


何も意見だけに限らず、知への偏った見方・集め方がこの鬱屈とした時代を「支えている」はずです。


ぼくがかんがえる大学の問題点



非常に世俗的な喩えだったので、少し話を大学に関連させて話を進めましょう。自らの研究が社会のどのような位置を支えているのか/支えられるのか。より大げさに言えば先人たちが築き上げてきた「知の基盤」のどの部分を自分は学生ながら担おうとしているのか。そのことについて客観的に知ろうとする場、つまり共通言語の「外面化」を行える場があまりにも大学には欠けているように感じてなりません。もちろん複数の学科を横断するようなプログラムは数多くありますが、講義形式のものが多く連なる中で共通言語を感じ取ることは困難でしょう。


また話は少し変わりますが、東京大学は学部は10に、大学院は15に分かれています。歴史的な経緯はさておき、こうした数が少なからず「知の基盤」の重層性を示している一方で、どれだけ学科を横断することが難しいかを同時に示しています。何より東京大学においてリベラルアーツと冠し総合的な知の枠組みを学び取る場として定義された前期教養学部が、その創始者である南原繁の意図と大きく離れ、70年たった今や進学選択のための点取りゲーム大会の会場と化していることはその好例やもしれません(ここらへんの話は「大学とは何か」(吉見俊哉著、岩波新書)を参照ください)。


「知ること」は共通言語の「外面化」を可能にします。また我々は蛇に睨まれた蛙のごとく学知の強大さ偉大さにひれ伏す一方で、いつの日か蛇に勝つために「知ること」をやめないのです。蛇に睨まれた井の中の蛙は大海を知り、眼前に控えし大海原を泳ぐことには目もくれず、進化論など飛び越えて大きく羽ばたくのです。小泉元内閣総理大臣よろしく柔軟かつ大胆に、そして付け加えるならば謙虚かつ傲慢に。それが学問を修めるものには必要な態度だと考えます。


蛇に睨まれたカエル。うん、それだけ。

突然の提案



企画の発端から大学院への不満まで「知ること」を切り口に長々と書いてきました。最後に大学に対して具体的な提案をしたいと思います。これは先学期受けたオムニバス形式の授業のレポートに書いた内容のままです(サボったわけじゃないよ)。


「受講者数人で1グループを作り、専攻はできる限りばらけさせる。一回の授業で一人が自分の研究について自由に30分程度発表する。残り時間は全て質疑応答議論の時間とする。そのような機会が欲しい。」


重要視しているのは二つです。「学生だけの場」で「全く知らない分野」の人と会話すること。前者についてはある意味緊張感のない場で、ゆったりと質問してみたいという僕のわがままです。こんな経験ありませんか?同期とだったら気兼ねなく議論できるのに、教授がその場にいるだけで議論どころか、口がまともに動かない。後者についてはここまで読み進めてくださった読者の方なら察するところでしょう。共通言語の「外面化」のために他なりません。


学生風情が何をと思われるでしょう。中途半端な知識で見える世界を語って何ができるんだと、学問の世界はそんな甘くないぞと。逆に言わせてもらいたい。完璧な世界が見えるまで待つつもりかと。多分に生存バイアスがかかった景色は確かに綺麗で理路整然としているだろうが、ぼくは混沌とした生の世界がみたいんだと。


何より最初に異言語交流を始めた人々のように共通言語を手当たりで知る試みを求めているのです。英会話教室よろしくHelloから始める必要は本当にあるのでしょうか。不自由な共通言語のコミュニケーションを通じて「知の基盤」の体系を垣間見、恐れ多くも自分なりに再構築していくことが必要だと考えます。


前回も言いましたが、学問を担うのは次世代の人間それ以外でありえないのです。今はぺーぺーな学生の喚きを大学も社会も許せないようでどうする。「何も分かってない」「どうせ勉強しても社会じゃ無駄だよ」そんなことを言うくらいなら、黙って見守っていただきたい。筆が乗るついでに全方向射撃しますが、外野の喚きに屈する学生も悪い。
「うるせぇ!!!」
どこかの主人公のようにそう言って進みましょう、もちろん謙虚に傲慢に。


「知ること」



「知ること」は根源的欲求であり、同時に「役に立つ」のです。役に立つ立たないという議論がなされるのは実学重視の社会が生み出した、これまた一面的な傾向です。学問など「役に立たない」と言う人には胸を張って応えればいいのです。

「今役に立つものが10年20年先に役立つとは限らない」

と。少し言い方を変えましょう。

「物事の根本的な理解(=学問)なくして実践などありえない」

と、真正面から応えるべきなのです。


「知ること」への浅ましいまでの希求、言い換えれば飽くなき探究心こそが、人類を、その社会を、前へ前へと推し進めてきた原動力であることは疑いようのないことでしょう。アリストテレスにまで遡る宇宙への「まなざし」は、ケプラー、ガリレオ=ガリレイ、ニュートン、アインシュタインなどの偉大な学者の手を経て、本当に少しずつではありますが宇宙の全貌を明らかにしつつあります。そして今や2002年の小柴昌俊、2015年の梶田隆章らのノーベル賞受賞に代表されるように日本人もその一端を担っています。


探究心こそが学問に携わる上で欠かせないものであることは間違いありません。さらにそうした学知の積み重ねの上に、今の社会は成り立っています。学問に携わろうとする学生が「知ること」を促進させる場で大学はあってほしい。無知を知り、「知ること」を求める学生をバカにすることのない社会であってほしい。


大学という場がこうした学生の願いを少しでも叶えられるようになるならば、そして社会が辛抱強く待てるならば、この国は世界は、また少し変わって見えてくる、そう強く信じています。


エピローグ



長くなりましたが、原田卒論ぶりの長文でした。
このブログをもって単位をくださる人を募集しています。
それは冗談ですが意見やコメント等どしどし書き込んでいただけると幸いです。
何にも分かってないなぁ、それは違うでしょ、なんでもござれです。


最後になりましたが、是非駒場祭にお越しください。

いや研究も就活もしてますからね...ほんとに。

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「ジブン×ジンブン」企画ID:386
第69期駒場祭にて開催東京大学駒場キャンパス(東京都目黒区 京王井の頭線・駒場東大前駅東口よりすぐ)
会場:1号館1階 112教室
日時:2018年11月23日(金)9:00-18:00/11月24日(土)9:00-18:00/11月25日(日)9:00-17:00
※25日(日)のみ終了時間が早まりますのでご注意ください。
入場料:無料(任意カンパ制)
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