はじめに
人文学について、問題を明らかにし、私の見解を示すために、以下のような構成としたい。まず西洋における人文主義(英humanism)の出現を概観し、どこに問題の軸があったのかを考え、私の専攻に寄せてスピノザを挟むことによってその軸をさらに明確にし、最後に私が考える今日の日本の人文学の問題点と、それについての私の意見を述べたいと思う。
人文主義(英humanism)の出現
| 左:俺たちのペトラルカ 右:註釈学派の注釈。周りの方が注釈。 | |
西洋における人文主義の出現は14世紀イタリアにさかのぼる。ペトラルカの研究(人文学研究、羅studia humanitatis)がその先駆けとして知られ、古典古代のテクストを収集し、その読解を通じて精神の涵養を目指した動きといえる。こうした動きは、一般的には12世紀以来発展してきたスコラ的な学問の在り方に対する批判として位置付けられる。それぞれの性質は以下で語ろう。
スコラ的な方法論では、とりわけ当時(12世紀以降)重要であった神学や法学の領域で、権威あるテクスト(新旧両聖書、市民法大全など)が選び出され(全ての古典テクストが権威とされたわけではない)、当時の弁証法(論理学)の形式に基づいて、テキストと先行する注釈に基づいて、教師や学生の間で延々とテクストをめぐった議論が行われた。議論の蓄積は、しばしば本文の解釈としての注釈という形で現れた。その一方で、人文主義者たちはラテン語、ギリシア語、さらにはヘブライ語といった古典テクストのコレクションから、写本を通したテクストそのものの成立過程や、テクストが主張する問題の時代的側面に注意を払い、権威ある一つのテクストの中でも、執筆された箇所同士の成立過程が異なれば矛盾しうることを指摘した。それは、典型的に法学においては註解学派(さしあたりこの記事が参考になる)に対する人文主義法学(さしあたりこの記事が参考になる)による批判として現れる。
問題の軸
スコラ学と人文主義についてのおそらく通説的といってよい理解は上に示した通りだが、人文主義のこうした思考様式は決してかび臭いものではなく、今日私たちの自己理解にとっても依然不可欠のものだと思う。以下私の考えを表したい。
例えば、人間はだれしも自分が属している物の時代性や地域性から拘束を受けていて、さらには多くの場合それにさえ気づかない。というのも、私たちにとってそれは前提となっていているからである。様々な慣行が当然のものとして受容され、その慣行そのものがどう評価されるべきかという点は、特にその社会の内側に身を置く以上はほとんど意識することも困難なものではないだろうか。
そのことに思いを致すとき、人文主義の方法論を携えることは、今日の現実を「ありのままに」はなから受容するのではなく、そこから離れてそれを鋭く見つめるために、いわば範型として前提となることだと思う。ある価値を見直し、疑義を呈し、あるいはそれを再び肯定する際に、最後の砦となるものではないかと私は思う。
ここで、この論旨を明確にするために、唐突ではあるが私の専攻の話を挟みたい。
自由意志はあり得ない?だから、精神の自由な決意で話をしたり・黙っていたりその他いろいろなことをなすと信じる者は、目をあけながら夢を見ているのである(『エチカ』第3部定理2備考)
『エチカ』では、人間はみな自分のことを自由だと思い込んでいるが、それはまさに自分を突き動かしている様々な物を認識できていないからで、こういうときこそ、人間は知らず知らずのうちに他の物から無限に影響を受け、感情に振り回された受動状態、つまり隷属した状態に置かれているという。
著者に言わせれば、『エチカ』の証明に沿って論理立てて一つ一つ事実を押さえていけば、人間はそのことに気づくことができるし、何もないところから唐突に「自由意志」なるものが物事を判断するわけではないということも明らかにすることができる。というのも、人間は他の無限の物から絶えず影響を受けており、自分の判断といえどもそれを免れるわけではないのだから。そのうえで、自分の存在を肯定する衝動に目を向け、物事を明瞭に認識して物事をなすときに、人間は初めて能動的といえるという。
この言いぶり、シビれるな、と思う。
彼が人文主義者として語られることはまずない。「幾何学的秩序に従って論証された」(『エチカ』の副題)書物の著者と、文献学者とでは、確かにイメージに隔たりがある。
しかし、彼は紛れもない人文主義の方法論の継承者でもある。スピノザの著作『神学政治論』、この本は、宗教的寛容の雰囲気が怪しくなり、「自由の国」オランダの宗教的自由や思想の自由が脅かされた時期に書かれ、匿名で出版した後、すぐに当局によって禁書にされた折り紙付きの「危険書」だったが、その内容には確かに驚かされる。
彼は聖書を神から与えられた聖典として、無批判にありがたがったりしない。ユダヤ人としてヘブライ語を修めていたスピノザは、旧約聖書をも、伝承の過程で様々な誤謬が含まれる点を指摘し、預言者や奇蹟の扱いについても、当時の状況を踏まえて人間の能力から合理的に説明しようとする。聖書の解釈は聖書の言語によってのみ行われるべきだという方法論を貫徹して、聖書を恣意的に解釈しようとする読みを排除する。それを踏まえてなお、彼によれば、読者は聖書から正義と愛の教えをありありと見出すことができるという。
スピノザを総括的に位置づけることは私にはまだできないが、彼の考え方、方法論の根底には、確かに人文主義と呼ばれた一連の動きと相通じるものがあったと私は感じている。というのも、彼の旧約聖書の扱い方は、「聖書は不可謬である」としたスコラ的な方法論をとる神学者に対して、人文主義の側によっているということが明らかだからである。 人文学の問題
今日、日本において人文学と呼ばれる分野が、ここまで語ってきた人文主義とどういう関係に立つかを詳しく論じることはここではできない。西洋における人文主義そのものが、さまざまな思想潮流へと解消しているため、直接その関係を描き出すことは難しいだろうと思うし、人文学と一言で言っても範囲が広すぎる。哲学と歴史学とで、当然方法論は異なっているだろうし、立場も違う。それでも一括りにしてよいのか私にはわからないが、さしあたって以下は私が属している法制史を念頭に考えてみることにする。
思うに、方法論という点では、人文主義の精神と人文学諸分野の精神との間には、やはり大きな親和性があるのではないかと思う。 私たちは今現在を研究において直接扱わない。しかし、今現在は常に念頭に置いている。なぜなら、研究している私たち自身が生きているのは紛れもなくこの今現在であって、私たちが持っているあらゆる概念、道具立ては、元をたどればここからしか理解できない。過去、異なる社会で書かれたテクストに取り組むためには、まず私たちが何を持っているのか、その装備を確認することが不可欠であり、何より、そうした社会を知ることで私たちの今現在について、新しい側面から光を当てることができるというのが、人文学諸分野の価値だと私は思う。 私の分野に寄せて考えれば、法学において、民法の言う「所有」という一つの単語をめぐっても、それが生じた古代ローマの社会や、この概念を消化してきた西洋法を考えなければ、私たちはこの言葉が意味するものを平面的に理解せざるを得なくなる。日本法の下で、私たちが物を所有しているというのは、一体全体どういうことなのか。「占有」とはどう、そしてなぜ違うのだろうか。根拠はさかのぼることができない。ただ、条文にこういうものと書かれているだけ。一体それでは、日本社会で機能しているこの概念を、日本社会の中からしか見ることができないではないか。何たる窮屈!私たちが考えるためには、この来歴の探求が不可欠なのではないか? 最後に
今日、人文学の価値に疑問が持たれているというのが、この企画の前提だった。然るに、人文学諸分野が役に立たないという主張に対しては、まず私が要約した先ほどのスピノザの見解を思い出してほしい。
人間は他の無限の物から絶えず影響を受けており、自分の判断といえどもそれを免れるわけではない(・・・中略・・・)そのうえで、自分の存在を肯定する衝動に目を向け、物事を明瞭に認識して物事をなすときに、人間は初めて能動的といえる。
私は彼の見解を借りて、主張者たちにこう問い返さなければならない。あなた方が何かが役に立つというとき、まさにそうあなた方を駆り立てるものを知らずにそう言っているだけではないのか。それを探求しようとしなければ、現実にただ拘束されているまま、ひたすら様々な物に引きずられるだけではないのか。
もちろん、私が人文学諸分野の価値といったものは、狭く人文学に限らず、どのような研究分野も多かれ少なかれ共有しているものに違いない。それでもなお、それを中核に置く人文学諸分野が排除されるとしたら、端的に、現実に異なる光を当てるという価値そのものを退けることになりはすまいかと私には思われる。
駒場祭でお待ちしています。
2018年11月6日加筆しました。
「ジブン×ジンブン」企画ID:386
第69期駒場祭にて開催東京大学駒場キャンパス(東京都目黒区 京王井の頭線・駒場東大前駅東口よりすぐ)
会場:1号館1階 112教室
日時:2018年11月23日(金)9:00-18:00/11月24日(土)9:00-18:00/11月25日(日)9:00-17:00
※25日(日)のみ終了時間が早まりますのでご注意ください。
入場料:無料(任意カンパ制)
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