| 地理学者だいすき富山県・砺波平野の散居村。 あとで出てくる小川先生が「地人関係」を論じた土地です。 |
これまで何度もブログで取り上げたように、ぼくたちの問題意識は最終的には「人文学の危機」というところにあります。ですが今日は少し回り道して、「人文」とは何かを考えるところから始めましょう。どうせ行き着く先が同じなら、毎回ちょっとずつ違う風景をお楽しみいただければと思います。
人文地理学――ふしぎなふしぎなガクモン、ちぢめてジンモン
(↑無理のある見出しでした。言いたかっただけ)そもそも人文地理学とは何でしょうか? ごく辞書的な説明をするなら、「系統地理学のうち、人間活動を扱うもの」です。じゃあ系統地理学とは何ぞや、といえば、これは様々な現象に関する地理的な一般法則を追究する地理学の一分野です。下の図を見てもらったほうが早いですね。
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| 分類には諸説あります。あるいは地理教育や地理思想などもこのほかに加えられます。 |
人文地理学の他に、人文と名の付く学問には何があるでしょう。「人文情報学」などがありますが、なかなか他の回答は出てこないのではないでしょうか。実際のところ、学問分野の中で「人文」を冠するものはほとんどありません。そして100年あまりの長きにわたってそれを用いてきたという点で、人文地理学は特異な位置を占めています。
なぜこのような学問が成立したのか? そしてそれが意味するものは何でしょうか?
人文地理学はhuman geographyの訳語です。この「人文地理学」という言葉、現在では多くの人が「じんぶんちりがく」と読みますが、ご年配の地理学者の中には「じんもんちりがく」に読む人もいます。humanitiesのほうはもっぱら「じんぶん」と読みますから、それとはやや質が異なることが分かります。
(ではhumanitiesにあたる言葉が地理学にないかといえば、実はhumanistic geographyというものがあって、これはふつう「人文主義地理学」と訳されます。混乱してきましたね。人文主義地理学は比較的新しい言葉なのでとりあえず脇に置いて、今は人文地理学の話に専念しましょう。)
察しのいい方はもうお気づきかと思いますが、これらは先に紹介したシンポジウム「人文学の最前線」で佐藤先生がおっしゃっていたように、東洋における「三才」――天文・地文・人文の区別を踏襲したものです。
そう考えると、○文学(もんがく)という学問はいくつかあることに気づきます。まずは「天文学」。このブログをよく読んでくれている人なら「水文学(すいもんがく)」も思いつくでしょう(詳しくはこの記事を参照)。もう1つ、今は使われなくなった言葉で、「地文学(ちもんがく)」というのもあります。これは今でいう自然地理学です*1。
人文地理学の「人文」の起源は、どうやらこの辺にありそうです。少し歴史をさかのぼって確かめてみましょう。
人文地理学ができるまで
(注:この章をまとめてるうちになんかすごい量になったのでちょっと小さめのフォントでお送りします。本題ではないので、興味と時間のある方だけお読みください。)
觀乎天文、以察時變、觀乎人文、以化成天下。
天文を観て以て時の変を察し、人文を観て以て天下を化成す。
〈易経・賁・彖伝〉
仰以觀於天文、俯以察於地理。
仰いで以て天文を観、俯して以て地理を察す。
〈易経・繋辞〉
「地理」という言葉自体の出典は「天文」と対となる語として中国の『易経』注に遡り、それをオランダから伝わったゼオガラヒー(geographia)の訳語に用いたのが18世紀のことです。ただし近代以前の地理とは、中国の「地理志」の伝統に倣い、国郡の地名や河川名・山名を羅列的に記述したものでした。
西洋の人文現象に関する地理の輸入は幕末期、「政治地理(邦制地理)」という語への翻訳とともに始まりました。なぜ政治? と思われるかもしれませんが、当時イギリスで、各国の人種・政治・軍事等に関する記述を行う分野がpolitical geographyと呼ばれていたのです。この当時はまだ日本はおろか西洋にも自然・人文地理の区別はありませんでした。ここでの政治地理も、国内外の地名や政体・人種・宗教などを羅列的に紹介するものにすぎませんでした。
体系的な学問としての人文地理学は、自然地理学にやや遅れて成立します。一般的な了解では1880年代にドイツのラッツェルがAnthropogeographie(人類地理学)ないしはKulturgeographie(文化地理学)として確立したもので、human geographyという言葉が生まれたのはイギリスの地政学者マッキンダーの1895年の演説によると言われています。人文地理学が本格的に学問として大成していくのは西洋では1900年代初頭のことで、それが日本に移入されるにはさらに10年を待たねばなりませんでした。
もっとも、1890年代の中等地理の教科書を紐解くと、既にhuman geographyが伝わる以前から「人文地理」の語がpolitical geographyの訳語として「政治地理」と並行して使われていたことが分かります。これらの多くは「天文・地文・人文」の3部立て、もしくは「自然(天然/地文)・人文」の2部構成になっており、「三才」を意識していたことが明らかです。
これらの教科書を書いたのは帝国大学の教授ではなく、在野の地理研究者たちです。近代地理学の古典も初めは在野の人々によって紹介され、それを踏まえて「地人関係」すなわち地文・人文の関係が論じられました。「人文地理学」という言葉を史上初めて用いたのは志賀重昂(1863-1927)であったと言われていますが、彼の著書『日本風景論』(1894年)は、明治を代表するヒットセラーとなります。
人文地理という言葉が定着するのはもう少し先のことです。例えば創価学会の創始者として知られる牧口常三郎(1871-1944)は志賀の弟子ですが、彼は1903年に『人生地理学』という1000ページに及ぶ大著を残しています。「人生地理学」という用語について、「政治地理学」は今日の意味と異なり、「人文地理学」では意味が広すぎる云々、従って人間生活の地理学を意味してこう呼んだのだ、と牧口は述べています。
ちなみに面白いことに、地理の外で「人文」の語が広まるのも、どうやら1880~90年代のことだったと見えます。例えば1879年に刊行されたフランシス・ウェーランドの『修身学』(The Elements of Moral Science; 大井鎌吉訳)は、civil societyを「人文社会」と訳していますし、陸羯南は1891年に『近時政論考』にて「個人の社会に対する自由」の意味で「人文自由」という言葉を使っています。また北村透谷『明治文学管見』(1893年)は、「人文進歩の度に応じて「実用」も亦進歩するものなる」と述べています。
(この辺りのことは、地理学と人文がどう関係してきたかを解き明かすカギになりそうなのですが、あいにく調べた限りではよく分かりませんでした。ご存知の方がいたら教えてください)
いっぽう明治期のアカデミアの地理学の様子はというと、1879年に産声を上げた東京地学協会*2が地理学の研究に当たり、『地学雑誌』という雑誌を刊行しました。しかしながら、殖産興業の時代にあって、当時の地理学に関する論説の大部分は地質学に関するものでした。
日本の大学教育史における最初の地理学者である小川琢治(1870-1941)は、1900年に東京地学協会に入会すると、パリ万国博覧会へ日本の地質図を出展するために渡米し、欧米の地理学への見識を深めました。帰国後彼は、地質学に傾いていた『地学雑誌』の編集方針を見直して地理学の重要性を唱道しました。
小川は地文・人文関係に強い関心を寄せていました。彼は1904年に『地学雑誌』上で牧口の『人生地理学』に対する書評を綴っていますが、彼はラッツェルのKuturgeographieに対応する「文明地理学」ないし「人文地理学」こそ定義にふさわしいとして、牧口の作った「人生地理学」なる語に苦言を呈しています。その後1908年に京都帝国大学に地理学講座(授業ではなくて専修課程のことです)が開かれると小川が教授として招かれ、まもなく「人文地理学」が開講されました。
こうしてみると、human geographyが成長していった西洋側の動きも見逃せないのですが、日本における「人文地理学」という名前の定着には小川の影響が大きかったのではないかと想像されます。かつての人文(じんもん)地理がいつ人文(じんぶん)地理に変わったのかはよく分かりません。戦後まもない1949年に発刊された、地理学の最も権威ある雑誌の1つ『人文地理(Human geography)』は、発刊当初から英題にJinbun Chiriを掲げていますから、戦前にはすでに「じんぶん」のほうが定着していたのでしょう。
西洋の人文現象に関する地理の輸入は幕末期、「政治地理(邦制地理)」という語への翻訳とともに始まりました。なぜ政治? と思われるかもしれませんが、当時イギリスで、各国の人種・政治・軍事等に関する記述を行う分野がpolitical geographyと呼ばれていたのです。この当時はまだ日本はおろか西洋にも自然・人文地理の区別はありませんでした。ここでの政治地理も、国内外の地名や政体・人種・宗教などを羅列的に紹介するものにすぎませんでした。
体系的な学問としての人文地理学は、自然地理学にやや遅れて成立します。一般的な了解では1880年代にドイツのラッツェルがAnthropogeographie(人類地理学)ないしはKulturgeographie(文化地理学)として確立したもので、human geographyという言葉が生まれたのはイギリスの地政学者マッキンダーの1895年の演説によると言われています。人文地理学が本格的に学問として大成していくのは西洋では1900年代初頭のことで、それが日本に移入されるにはさらに10年を待たねばなりませんでした。
もっとも、1890年代の中等地理の教科書を紐解くと、既にhuman geographyが伝わる以前から「人文地理」の語がpolitical geographyの訳語として「政治地理」と並行して使われていたことが分かります。これらの多くは「天文・地文・人文」の3部立て、もしくは「自然(天然/地文)・人文」の2部構成になっており、「三才」を意識していたことが明らかです。
これらの教科書を書いたのは帝国大学の教授ではなく、在野の地理研究者たちです。近代地理学の古典も初めは在野の人々によって紹介され、それを踏まえて「地人関係」すなわち地文・人文の関係が論じられました。「人文地理学」という言葉を史上初めて用いたのは志賀重昂(1863-1927)であったと言われていますが、彼の著書『日本風景論』(1894年)は、明治を代表するヒットセラーとなります。
人文地理という言葉が定着するのはもう少し先のことです。例えば創価学会の創始者として知られる牧口常三郎(1871-1944)は志賀の弟子ですが、彼は1903年に『人生地理学』という1000ページに及ぶ大著を残しています。「人生地理学」という用語について、「政治地理学」は今日の意味と異なり、「人文地理学」では意味が広すぎる云々、従って人間生活の地理学を意味してこう呼んだのだ、と牧口は述べています。
ちなみに面白いことに、地理の外で「人文」の語が広まるのも、どうやら1880~90年代のことだったと見えます。例えば1879年に刊行されたフランシス・ウェーランドの『修身学』(The Elements of Moral Science; 大井鎌吉訳)は、civil societyを「人文社会」と訳していますし、陸羯南は1891年に『近時政論考』にて「個人の社会に対する自由」の意味で「人文自由」という言葉を使っています。また北村透谷『明治文学管見』(1893年)は、「人文進歩の度に応じて「実用」も亦進歩するものなる」と述べています。
(この辺りのことは、地理学と人文がどう関係してきたかを解き明かすカギになりそうなのですが、あいにく調べた限りではよく分かりませんでした。ご存知の方がいたら教えてください)
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| 小川琢治(1870-1941) ノーベル賞物理学者の湯川秀樹は彼の息子。 |
いっぽう明治期のアカデミアの地理学の様子はというと、1879年に産声を上げた東京地学協会*2が地理学の研究に当たり、『地学雑誌』という雑誌を刊行しました。しかしながら、殖産興業の時代にあって、当時の地理学に関する論説の大部分は地質学に関するものでした。
日本の大学教育史における最初の地理学者である小川琢治(1870-1941)は、1900年に東京地学協会に入会すると、パリ万国博覧会へ日本の地質図を出展するために渡米し、欧米の地理学への見識を深めました。帰国後彼は、地質学に傾いていた『地学雑誌』の編集方針を見直して地理学の重要性を唱道しました。
小川は地文・人文関係に強い関心を寄せていました。彼は1904年に『地学雑誌』上で牧口の『人生地理学』に対する書評を綴っていますが、彼はラッツェルのKuturgeographieに対応する「文明地理学」ないし「人文地理学」こそ定義にふさわしいとして、牧口の作った「人生地理学」なる語に苦言を呈しています。その後1908年に京都帝国大学に地理学講座(授業ではなくて専修課程のことです)が開かれると小川が教授として招かれ、まもなく「人文地理学」が開講されました。
こうしてみると、human geographyが成長していった西洋側の動きも見逃せないのですが、日本における「人文地理学」という名前の定着には小川の影響が大きかったのではないかと想像されます。かつての人文(じんもん)地理がいつ人文(じんぶん)地理に変わったのかはよく分かりません。戦後まもない1949年に発刊された、地理学の最も権威ある雑誌の1つ『人文地理(Human geography)』は、発刊当初から英題にJinbun Chiriを掲げていますから、戦前にはすでに「じんぶん」のほうが定着していたのでしょう。
ここから本題
さて、人文地理学の成立に関する些末な話を(かなり大雑把に)つらつらと書いてきました。何が言いたかったのでしょうか。そう、「人文」とは何かということです。明治の段階ではどうやら「人文」は文化とか文明と同義に用いられています。すなわち人間活動・人間の関わる現象全般を指す言葉です。少なくとも今日我々が用いる、「人文学」の「人文」とは意味を異にしています。社会科学の一派であると見なされる人文地理学が「人文」を名負うているのはこういう事情があったわけです*3。
ちなみに、「人文学」という言葉が世に出てくるのもちょうど明治の後半(1890~1900年代)のことなのですが、それに関しては後日別のメンバーがまとめてくれるそうなので丸投げします(おい)。
人文地理学だけが「人文」を冠しているのは、未分化だった「地理学」がまず根本にあり、そこから気候学や地質学といった自然科学系の地理学、そして人文系の諸地理学が分化していったからです*4。地理学の中では遅くに発達したのですから、歴史ある学問のわりに名前が長い(5文字)のも仕方ありません。これは社会学や経済学、あるいは文学や哲学のような、人間活動を前提としてきた学問とは事情を異にするところです。
ここで注目したいのは、人文地理学というのは「人文を地理的に究明する」学問だということです。ここから先は、ぼくなりのちょっとした言葉遊びになります。もうしばらくお付き合いください。
そもそも「学」って何なのか
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| ヨーロッパ中世の「自由七科」と その上に立つ哲学・神学 |
しかし、その個々の「学」を解剖してみると、無数の研究分野に分かれています。われわれUT-humanitasのメンバーを見ても、比較文学・歴史人類学・美術史学・教育哲学・宗教史学・法史学……というふうに「ホニャララなんとか学」を名乗っています。人文学に限った話ではなく、社会科学でも自分の専門を流通経済学・行動心理学・農村社会学……などと言うのが普通です。
新興の分野は、地域「研究」(area studies)とかメディア「論」(media studies)などと呼ばれます。もちろん島嶼学(nissology)のように特に学際的な分野で、現代でもいくつもの新しい「学」が作られていますが、あまり一般的な用語ではありません。なぜかと言えば、島嶼社会学・島嶼生物学・島嶼地理学というふうに、個々の研究者は既存の学問の方法に拠っているからです。その意味で言えば、「学」自体は数えるほどしかないのです。
「学」に対応する英語はあまりはっきりしません。例えば宗教学もhistory of religionとかreligious studiesとか、稀にreligiologyなどと呼ばれるようです(学問は必ずしも英語由来ではないので英語だけを見比べても仕方ない話ではありますが)。日本語の場合「学」は比較的大きな枠組みとして捉えられています。
これはぼくの考えですが、東アジアの文脈における「学」は、その時代・その地域の「正しさ」を形作るような権威的な(=正統性を持った)方法、と理解できるように思います。例えば儒学は江戸時代の日本の統治システムを形成する重要な役割を果たしてきましたが、今日ではふつう儒教の思想を指して儒学ということはありません(同じく、道教や仏教は当時から「学」ではありえませんでした)。
「学」の拠って立つところは必ずしも研究の内容ではなくて、その内容を明らかにする方法とその権威にあります*6。人文学の世界は(無数の「ホニャララなんとか学」があることからも分かるように)タコ壺的であると言われますが、そういう状況下での対話を可能にしているのは、実のところこの「学」の力なわけです。
さて、人文学の話です。なぜ今日までぼくたちが人文「学」という言い方をするかと言えば、その方法に長い歴史的権威があることを認めているからです。人文学が受け継いできた正統な方法とは、他でもなく先人の知の蓄積を汲み上げることです。具体的に「引用」と言い代えてもよいでしょう。
ところで西山雄二編『人文学と制度』は、現在の人文学を、普遍的な人間性の涵養を目指したルネサンス期以来の「包括的な人文学」から自然科学や社会科学が分離したあとの「残余」であると位置づけています。つまり、規則性・再現性をもった対象を扱う分野が徐々に分離していって、そうした方法で扱いにくい研究対象だけが残ったのが今日の人文学です。偶然かは分かりませんが、さしづめ「人文」が元々人間の文化・文明全てを表す言葉だったのとやや似ています。
規則化できない対象を探究するという人文学の営みは、それが科学と呼べるのか? 学問と呼べるのか? という問いと背中合わせにあります。かつての儒学や神学のように、その内側では権威があっても、その権威が失われた今のわれわれの目から見れば、何やら実体の見えない神秘的な奥義に見えるかもしれません。それは、直接的に生活の「役に立っていない」こととも無関係ではないでしょう。
学問が近代国家を支える制度として維持されるようになり、それが経営難に直面している現在、それは一層深刻です。今ぼくたちが「人文学の危機」というとき、それは単に役に立たないというだけでなく、その権威が疑われているということです。お前たちのやってる訳の分からない儀式は何? そんなものをありがたがって何のご利益があるの? と。
人文学が人文「学」であるために
「儀式」が正しさを保証するかは答えの出ない問題です。しかしご利益はあります。たくさんの答え方があるでしょうが、あくまで社会科学たる人文地理学の立場(完全に社会科学に寝返りました。都合いいですね)で、考えてみたいと思います。示したい戦略は2つです。1.学問皆兄弟論法
第2次大戦後、地理学ではアメリカを中心に計量革命と呼ばれる動きが起こり、数理的モデルによって社会構造を明らかにすることが1950年代以降の地理学の大きな使命となりました。こうした数理的モデルは実際の社会的現象に適用され、政策決定にも影響力を持ちました。
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| みんなだいすき中心地理論 (これ自体は戦前からある理論ですが) |
しかししばらくして、結局のところ、計量的・実証的方法は人間の営みを軽視しているのではないか? ということが叫ばれるようになりました*7。これに呼応するように1970年代ごろから人間の主観的な経験に目を向ける人文主義地理学(この記事の冒頭のほうで置き去りにしたアイツです)や社会の現状批判を呼びかける批判地理学というものが立ち現れてきます。
これを追う形でポスト構造主義の潮流が押し寄せ、女性やセクシャル・マイノリティといった従来の地理学が排除してきた対象の存在が明るみになります。こうして一様に捉えきれない人間経験の諸側面が明らかになるにつれ、地理学の関心は言語や表象、感情といった従来の社会科学の扱わなかった領域に踏み込んでいくことになります。ここにおいて、言説分析やライフヒストリーといった人文学的手法も浮上してきます*8。
もちろん、既存の地理学の手法は今なお盛んです。むしろ、統計や数理的手法によって社会全体の流れを大づかみに把握する社会科学の手法に対して、人文学的手法がなしうる力は微々たるものかもしれません。しかしながら今日、計量的・実証的な方法だけでは粗削りな分析にならざるをえないし、並行して行わねば抜け落ちてしまう部分があることも確かです。それは、人間の営みが、科学的記述に適した自然の在り方とは異なることに由来します。簡潔に言えば多様性です。
近ごろ、理系分野でノーベル賞を受賞された多くの研究者が基礎研究の重要性を説いて話題になっていますが、人文学もまた社会科学に思考の枠組みを与える、基礎研究のような側面を持ちます。現代の地理学者にとって、カントやフーコー、ドゥルーズの思考の蓄積がなければ、今日の社会を理解することはほとんど不可能さえ言えます。
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| とある人文地理学教室の院生在室確認表の一部。 現代地理学の思潮が反映されている。 |
地理学の話に限って書きましたが、そもそも社会科学の多くは、普段意識しなくとも人文学の思想・方法の恩恵に浴しています。ですから、社会科学からしてみれば人文学は現に役に立っているのです。にもかかわらず人文学が「役に立たない」などと言われるのであればそれは、社会科学と人文学が道を違えた兄弟であることが忘れられつつあるからかもしれません。
2.バベルの塔論法
先ほど人文学は「残余」であると言いましたが、それはちょうど、地理学が発展の過程で自然科学的な分野をそぎ落としていったのと似ています。さらに言えば、人文地理学は「総合の学」を自称する一方で、その専門的領域の不在から常にアイデンティティに悩まされてきた学問でもあります。しかし同時に、地理学というかなり茫漠とした領域が、全く違う方向を向いた研究者に共通の議論の場を提供していることは、それ相応に価値のあることだとぼくは思うわけです。
まったく同じことが、人文学の現場にも言えると思います。
先にわれわれのメンバーの原田が、こういうことを言っていました。
人間関係が思った以上に自分の視野を規定していることすら、長く同じ環境に置かれると感じ取れなくなる。
専門的な思考の枠組みや習慣が知らず知らずの間に染み付くこと、これを「共通言語の内面化」と呼びましょう。
これは全くその通りです。実際ぼくもジブン×ジンブンに関わってかなり刺激を受けていますし、思考の風通しを良くすることは必要です。
しかしここで考えてみましょう。ぼくたちが全く異なる分野の人と話をしているとき、一体どうやって会話しているのでしょう。われわれは案外知らないうちに、共通の先人たちの思考の蓄積の上に乗っかっているのではないでしょうか。もしその最後の部分までもが失われれば、それはバベルの塔の崩壊を意味するのではないでしょうか。
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| ピーテル・ブリューゲル『バベルの塔』(1563年) もし上の比喩が分からない人がいれば、「バベルの塔の崩壊」とはまさにそういうことです。 |
マルクス主義が文系諸学問に大きな影響力を持っていた時代はとうに過ぎ去りましたが、その後の人文学の知の蓄積は、今でも文系の共通言語として大いに意味があるはずです。もしその価値が疑われているとすれば、ぼくたちも多分、自分たちの思考が何に寄りかかっているか分かっていないのです。とすればぼくたちは、そういう「共通言語を外面化」する必要に迫られています。本企画「ジブン×ジンブン」の動機は、まさにそこにあります。
まとめ――文の時義は遠きかな
とっ散らかった、あんまり面白くない文章を最後まで読んでくださった方、ありがとうございます。ぼくが言いたかったことを軽くまとめて終わりたいと思います。
「人文」とは元々は人間の文化・文明を意味します。人文・社会科学は広くそうした人間活動のあり方を明らかにすることを目的としています。元よりそれは、権威的なものと無関係ではありません。
そうした社会の仕組みを理解して社会に還元するという意味では、その役割は現在、社会科学のほうが重きを占めていると思います。でも、人間活動の複雑さを本当に理解しようとすれば、人文学は決して役に立たないなどとは言えません。それらの積み重ねの上に初めて社会科学も成立するのです。その価値をぼくたちはもっと認識すべきだと思います。
長々と書き連ねてしまいましたが、今日ぼくが言いたかったこと全ては、1500年前に書かれた下の二文が簡潔に表しています。
文の意義は深遠、つまり見えにくいけれど奥深いのです。
文の意義は深遠、つまり見えにくいけれど奥深いのです。
易曰、觀乎天文、以察時變、觀乎人文、以化成天下。文之時義遠矣哉。
易に曰く、天文を観て以て時の変を察し、人文を観て以て天下を化成す、と。文の時義は遠きかな。
〈文選・序〉
では、駒場祭でお待ちしております。
「ジブン×ジンブン」企画ID:386
第69期駒場祭にて開催東京大学駒場キャンパス(東京都目黒区 京王井の頭線・駒場東大前駅東口よりすぐ)
会場:1号館1階 112教室
日時:2018年11月23日(金)9:00-18:00/11月24日(土)9:00-18:00/11月25日(日)9:00-17:00
※25日(日)のみ終了時間が早まりますのでご注意ください。
入場料:無料(任意カンパ制)
注
*1: ちなみに東大には地文(ちもん)研究会という学生団体(サークル)がありますが、これも1951年以来の長い歴史をもつ組織です。↩
*2: ここで唐突に「地学」という言葉が出てきますが、話が非常にややこしいので割愛します。「地理学」とほぼ同義だとお考え下さい。↩
*3: この記事を書き終えてから知ったことですが、中国では今でも人文という言葉が文化と似た意味で使われているそうです(レジュメに人文ってあるけどどういう意味、と留学生に聞いたら「人文地理学の人文ですよ」と笑われました)。↩
*4: 上の話の中で省略しましたが、地文学という言葉も、(話者によってさまざま使い分けられましたが)気候・地形・地質・水文・生物などの広い分野にまたがる地理の一領域を指す語として使われていました。こちらはやがて自然地理という語に置き換えられることになります。↩
*5: これらの分類は相対的なものです。歴史学や言語学や人類学などは社会科学に含められることもあります。↩
*6: この定義はあまりよく思わない人もいるでしょうが、国立大学の成り立ちを考えたとき、学問と権威を切り離して語ることはできないように思います。またエドワード・サイードが指摘したように、人文学には文化保守主義的な側面もあります。大雑把に言えば高級サロン化しがちということです(詳しくは後述の『人文学と制度』をご参照ください)。↩
*7: 計量地理学には実際限界もありました。例えば1970年代の欧米先進国では、反都市化という都市部からの人口流出現象が起こり始めましたが、計量地理学者はこの現象を十分に説明することができませんでした。↩
*8: 同じことは社会学などにも言えます(というより地理学は全般に社会学から大きな影響を受けています)。↩
サムネイル出典:
By Natsuhiko [CC BY-SA 3.0], from Wikimedia Commons






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