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| 卒論で扱った中上健次『枯木灘』の河出文庫新版。白い...。 |
初めましてこんにちは、今回ジブン×ジンブンの企画に参加させていただく岡田と申します。東京大学大学院の美学芸術学研究室に四月から所属している修士一年生です。ジブン×ジンブンは教養学部時代のクラスメイトでもあった創設メンバーの一人に声を掛けられ参加することになりました。
美学芸術学研究室に所属しているからには、ここでは美学芸術学についてひとこと物申すのが最良と思われます。しかしながら、驚くべきことに私は美学芸術学についてほとんど何も知らないのです(!?)というのも私は学部時代には私は現在の研究室ではなく、文学系の研究室に所属しており、去年の暮れからこの分野について勉強し始めたに過ぎません。これでは美学芸術学を専門として語る資格があるとは到底言えませんね。
というわけでこの記事では私が学部時代にやっていたこと(=文学研究)を中心に書きたいと思います。
ちょっとだけ自己紹介
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| 東大現代文芸論研究室のHP。(http://www.l.u-tokyo.ac.jp/genbun/) |
私が学部時代に所属していたのは文学部の現代文芸論という研究室でした。字面からでは何をしている場所なのかまったくわからないと思われます。
現代文芸論は文学系研究室の一つで、英米文学・仏文学・独文学・国文学などの縦割りの枠組みではとらえられない文学について読み、語る場である、と言えましょう。より詳しく言えば、そして私の独断をもってすれば、現代文芸論は以下の三つの事柄について学ぶことが出来る場所と言えます。つまり、「周縁」・「越境」・「世界」です。
まず一つ目の「周縁」とは歴史的に構成された文学的辺境のことです。私たちが「文学」という言葉から思い浮かべる作家や作品は、国文学やそれに関わりの深い漢籍を除けば、西ヨーロッパやロシア、あるいはアメリカあたりの作品が多いのではないでしょうか。それはシェイクスピアであったり、バルザックなどの作家かもしれませんし、作品で言えば『武器よさらば』や『カラマーゾフの兄弟』かもしれません。
以上のようなイギリス、フランス、アメリカ、ロシアなどの国々の作品は古典として盛んに読まれ、まさに文学研究の「中心」と見なされてきましたし、東大でそれらについて学びたいならば、文学部に古くからある英米・フランス・ドイツ・スラヴ文学研究室の戸を叩けば良いわけです。
一方で上の文章を読んで首を傾げた方もいるかもしれませんね。「『百年の孤独』のガルシア=マルケスを擁するラテンアメリカはどうなんだ?」「『ソラリス』を書いたスタニスワフ・レムを生んだポーランドは?」「最近面白かった『私は英国王に給仕した』を書いたボフミル・フラバルはチェコの人みたいなんだけど…?」という声が四方八方から聞こえてきます。ご安心下さい、現代文芸論研究室はそんな私たちのためにあります。現代文芸論では最近まで文学研究で日の光を浴びてこなかった地域を一手に引き受けています。上に挙げたラテンアメリカ、ポーランド、チェコにとどまらず、カナダから沖縄に至るまで、他の文学研究室で扱おうとすれば指導教官に首を傾げられること請け合いの、「マイナー」な地域の文学をやる場所。それが現代文芸論であると言えるでしょう。
まず一つ目の「周縁」とは歴史的に構成された文学的辺境のことです。私たちが「文学」という言葉から思い浮かべる作家や作品は、国文学やそれに関わりの深い漢籍を除けば、西ヨーロッパやロシア、あるいはアメリカあたりの作品が多いのではないでしょうか。それはシェイクスピアであったり、バルザックなどの作家かもしれませんし、作品で言えば『武器よさらば』や『カラマーゾフの兄弟』かもしれません。
以上のようなイギリス、フランス、アメリカ、ロシアなどの国々の作品は古典として盛んに読まれ、まさに文学研究の「中心」と見なされてきましたし、東大でそれらについて学びたいならば、文学部に古くからある英米・フランス・ドイツ・スラヴ文学研究室の戸を叩けば良いわけです。
一方で上の文章を読んで首を傾げた方もいるかもしれませんね。「『百年の孤独』のガルシア=マルケスを擁するラテンアメリカはどうなんだ?」「『ソラリス』を書いたスタニスワフ・レムを生んだポーランドは?」「最近面白かった『私は英国王に給仕した』を書いたボフミル・フラバルはチェコの人みたいなんだけど…?」という声が四方八方から聞こえてきます。ご安心下さい、現代文芸論研究室はそんな私たちのためにあります。現代文芸論では最近まで文学研究で日の光を浴びてこなかった地域を一手に引き受けています。上に挙げたラテンアメリカ、ポーランド、チェコにとどまらず、カナダから沖縄に至るまで、他の文学研究室で扱おうとすれば指導教官に首を傾げられること請け合いの、「マイナー」な地域の文学をやる場所。それが現代文芸論であると言えるでしょう。
二つ目の「越境」とは国や言語の境界を越えるという意味です。文学研究というのは基本的に国や言語ごとの縦割りで研究対象を定めています。フランス文学研究室であれば、フランス語で書かれた、フランス人作家の作品を研究せよというわけです。しかしその枠組みでは扱えない作家、あるいは十分に研究することが出来ない作家が存在しますね。
例えば『ロリータ』という(中年オヤジが未成年児童と関係を持つことで)有名な作品を書いた、ウラジミール・ナボコフという20世紀の押しも押されぬ大作家なんかどうでしょう。名前からもわかる通り、彼はロシア生まれでロシア語が母語なのですが、英語での創作も活発で、むしろそちらの業績の方が知られているくらいです(『ロリータ』も英語で書かれました)。この場合、ナボコフはロシアの作家なのでしょうか、それとも亡命・帰化先のアメリカの作家なのでしょうか…?どちらを選ぶにせよ、ナボコフという作家の全体像を掴み損なってしまうでしょう。そのような「越境」した作家や文学における「越境」それ自体について学べるのが現代文芸論研究室です。
実は「越境」はもう一つのテーマを伴っています。それが言語の「越境」としての「翻訳」です。現代文芸論では単に外国語文学を母国語で読めるようにするための手段としてだけでなく、「翻訳」に積極的な価値を見出し、それ自体を芸術的営為として捉えています。彼の作品を英訳しまた実際に学生が翻訳し、それを教員が添削する講義も開かれていました。
さてそれでは、最後の「世界」とはなんでしょうか?これは現代文芸論が「世界文学」を研究する場所であることを示しています。
「世界文学」とは単に研究対象が「世界の文学」であるということにとどまりません。それは文学に対する一つの態度でありアプローチであると言うべきでしょう。「世界文学」概念はデイヴィッド・ダムロッシュの『世界文学とは何か?』(秋草俊一郎他訳, 国書刊行会, 2011)で提唱されたものですが、そのテーゼを一言で表すなら「比較できないものを比較する」であると言えます。
通常、複数の文学作品を比較する場合は作品間の直接の影響関係に依拠することが多く、結果として隣接地域の作品を比較検討することが多いようです。しかし世界文学の実践の場である現代文芸論では、そのような縛りを取り払い、古今東西世界のあらゆる文学作品を俎上に載せて分析することが出来るのです。ですからフォークナーの『響きと怒り』と泉鏡花の『高野聖』の比較なあんて卒論を書く学生もいたりします。
またそのような世界の文学に対するアプローチは、広義の文学理論・批評理論一般のことであるとも言えます(「世界文学」概念も一つの文学理論と言えましょう)。文学理論とはつまり文学をどのように読み解くかの一般理論です。それは作品をあらゆる文脈から切り離すニュー・クリティシズムであったり、作品に人間の精神構造を見出す精神分析批評であったり、あるいは植民地問題や脱植民地運動とテクストを結びつけるポストコロニアル批評であったりするでしょう。そのような理論を学ぶとは、国や言語ごとの縦割りではない、新しいアプローチで世界の文学に接近しようとすることと言い換えられるのです。
さて、じゃあお前はどうなんだ、という問いにはここまでの流れを追うことでお答えしましょう。私の卒論は中上健次という日本の作家とエドゥアール・グリッサンというフランス領マルティニーク島のフランス語作家の比較研究でした。まずもって世界の文学研究の中では日本文学はマイナーですし(英語で国際的に発表される日本文学に関する論文といったら微々たるものです)、一方マルティニーク島も長らくフランスの植民地として独自の自律した文化を否定されてきた「周縁」であるわけです。この意味で私の研究は「周縁」文学の研究でした。次に中上とグリッサンの作品において、言語における「越境」が為されています。つまり中上においては「東京弁」と「紀州弁」、グリッサンにおいては「フランス語」と「クレオール語」が(グリッサンの場合は潜在的ではありますが)テクストにおいて用いられ、それらが相互に影響を与え合い、双方が変容することによって、まさにその言語間の境界が「越境」されるわけです。また日本語とフランス語を同じ俎上に乗せる行為自体が、ある意味言語的越境を論文の中で行ったものだと言えます。最後に中上とグリッサン、つまり日本語作家とフランス語作家という「比較できないもの」を比較しようとした、という点で私の研究は「世界」文学研究の一端を担ったと言えるでしょう。
例えば『ロリータ』という(中年オヤジが未成年児童と関係を持つことで)有名な作品を書いた、ウラジミール・ナボコフという20世紀の押しも押されぬ大作家なんかどうでしょう。名前からもわかる通り、彼はロシア生まれでロシア語が母語なのですが、英語での創作も活発で、むしろそちらの業績の方が知られているくらいです(『ロリータ』も英語で書かれました)。この場合、ナボコフはロシアの作家なのでしょうか、それとも亡命・帰化先のアメリカの作家なのでしょうか…?どちらを選ぶにせよ、ナボコフという作家の全体像を掴み損なってしまうでしょう。そのような「越境」した作家や文学における「越境」それ自体について学べるのが現代文芸論研究室です。
実は「越境」はもう一つのテーマを伴っています。それが言語の「越境」としての「翻訳」です。現代文芸論では単に外国語文学を母国語で読めるようにするための手段としてだけでなく、「翻訳」に積極的な価値を見出し、それ自体を芸術的営為として捉えています。彼の作品を英訳しまた実際に学生が翻訳し、それを教員が添削する講義も開かれていました。
さてそれでは、最後の「世界」とはなんでしょうか?これは現代文芸論が「世界文学」を研究する場所であることを示しています。
「世界文学」とは単に研究対象が「世界の文学」であるということにとどまりません。それは文学に対する一つの態度でありアプローチであると言うべきでしょう。「世界文学」概念はデイヴィッド・ダムロッシュの『世界文学とは何か?』(秋草俊一郎他訳, 国書刊行会, 2011)で提唱されたものですが、そのテーゼを一言で表すなら「比較できないものを比較する」であると言えます。
通常、複数の文学作品を比較する場合は作品間の直接の影響関係に依拠することが多く、結果として隣接地域の作品を比較検討することが多いようです。しかし世界文学の実践の場である現代文芸論では、そのような縛りを取り払い、古今東西世界のあらゆる文学作品を俎上に載せて分析することが出来るのです。ですからフォークナーの『響きと怒り』と泉鏡花の『高野聖』の比較なあんて卒論を書く学生もいたりします。
またそのような世界の文学に対するアプローチは、広義の文学理論・批評理論一般のことであるとも言えます(「世界文学」概念も一つの文学理論と言えましょう)。文学理論とはつまり文学をどのように読み解くかの一般理論です。それは作品をあらゆる文脈から切り離すニュー・クリティシズムであったり、作品に人間の精神構造を見出す精神分析批評であったり、あるいは植民地問題や脱植民地運動とテクストを結びつけるポストコロニアル批評であったりするでしょう。そのような理論を学ぶとは、国や言語ごとの縦割りではない、新しいアプローチで世界の文学に接近しようとすることと言い換えられるのです。
さて、じゃあお前はどうなんだ、という問いにはここまでの流れを追うことでお答えしましょう。私の卒論は中上健次という日本の作家とエドゥアール・グリッサンというフランス領マルティニーク島のフランス語作家の比較研究でした。まずもって世界の文学研究の中では日本文学はマイナーですし(英語で国際的に発表される日本文学に関する論文といったら微々たるものです)、一方マルティニーク島も長らくフランスの植民地として独自の自律した文化を否定されてきた「周縁」であるわけです。この意味で私の研究は「周縁」文学の研究でした。次に中上とグリッサンの作品において、言語における「越境」が為されています。つまり中上においては「東京弁」と「紀州弁」、グリッサンにおいては「フランス語」と「クレオール語」が(グリッサンの場合は潜在的ではありますが)テクストにおいて用いられ、それらが相互に影響を与え合い、双方が変容することによって、まさにその言語間の境界が「越境」されるわけです。また日本語とフランス語を同じ俎上に乗せる行為自体が、ある意味言語的越境を論文の中で行ったものだと言えます。最後に中上とグリッサン、つまり日本語作家とフランス語作家という「比較できないもの」を比較しようとした、という点で私の研究は「世界」文学研究の一端を担ったと言えるでしょう。
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| エドゥアール・グリッサン『レザルド川』恒川邦夫訳(現代企画室、2003年)。控えめに言って難解。 |
好きなこと
・東大美術サークルというサークルに所属していて、絵を描いたり観たりするのが趣味です。山本タカトという画家の追っかけをしていて、そのせいで慢性金欠病なのですが、また最近ではさらに現代アート方面を開拓しようと美術館通いを続けているせいで、まさに赤貧といったところです。
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| 山本タカト画集『ヘルマフロディトスの肋骨』(エディシオン・トレヴィル、2008年)より。 |
・小説や詩も好きです。好きな作品は何?という質問は恋人のどこが好きなの?という質問に似て答えるのが難しいですが、最近面白かったのはリュドミラ・ウリツカヤというロシアの作家の『ソーネチカ』(沼野恭子訳, 新潮クレスト・ブックス, 2002)でしょうか。ソーネチカの山あり谷ありの人生と、どんな時も彼女を包んでいる幸福感が印象的な作品です。新潮クレスト・ブックス大好き。
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| リュドミラ・ウリツカヤ『ソーネチカ』 |
おすすめの本
ここまで文学の話をのんべんだらりとしてきたのですが、実はある重要な問いを意図的に避けて来ました。それは「そもそも文学研究に何の意味があるの?」という、おそらく文学研究者に耳にタコが出来てそのタコにタコが出来てフラクタル構造になるくらいぶつけられた疑問です。そのような疑問をお持ちの方にうってつけの本を紹介させていただきましょう。
それはテリー・イーグルトン『文学とは何か―現代批評理論への招待』(大橋洋一訳)です。岩波文庫でも読めます。あるいは訳者の大橋洋一による『新文学入門―T・イーグルトン『文学とは何か』を読む』(岩波セミナーブックス)から読み始めると、内容を理解しやすいかもしれません。これらの本は文学研究という「制度」が生まれたのちに、その研究方法としての理論がどのような歴史的変遷を辿って来たかについて軽快に概観しています。これを読めば文学を研究するということが、どのように社会・文化・歴史・思想と関わったものであるかが、たちどころに理解されること間違いなしと思われます。
それはテリー・イーグルトン『文学とは何か―現代批評理論への招待』(大橋洋一訳)です。岩波文庫でも読めます。あるいは訳者の大橋洋一による『新文学入門―T・イーグルトン『文学とは何か』を読む』(岩波セミナーブックス)から読み始めると、内容を理解しやすいかもしれません。これらの本は文学研究という「制度」が生まれたのちに、その研究方法としての理論がどのような歴史的変遷を辿って来たかについて軽快に概観しています。これを読めば文学を研究するということが、どのように社会・文化・歴史・思想と関わったものであるかが、たちどころに理解されること間違いなしと思われます。
(ちなみに訳者の大橋先生は東大で長い間文学理論を教えていらしたのですが、筒井康隆の『文学部唯野教授』の唯野教授のモデルであるとの噂がまことしやかにささやかれています。今年退官されましたが果たして...?)
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| 大橋洋一『新文学入門』。 |
ここまでお読みくださりありがとうございました!この後にもさらに魅力的なニュウカマーが続々控えております。次回記事もお楽しみに!
企画詳細
「ジブン×ジンブン」企画ID:501
第92回五月祭にて開催東京大学本郷キャンパス
(東京都文京区 東京メトロ南北線東大前駅・丸ノ内線本郷三丁目駅から徒歩5分)
会場:教育学研究棟3階 357教室(赤門入って左手の建物)
日時:2019年5月18日(土)9:00-18:00/5月19日(日)9:00-17:00
※19日(日)のみ終了時間が早まりますのでご注意ください。
入場料:無料(任意カンパ制)







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